山口地方裁判所 昭和33年(ワ)147号 判決 1960年7月04日
原告 小井手七郎
被告 山口市
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は「被告は原告に対し金五〇九九、〇〇〇円及びこれに対する昭和三三年三月二一日から支払済に至るまで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、右主たる申立が容れられないときは予備的に「被告は原告に対し金二七一九、〇〇〇円及びこれに対する同三三年一月一七日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、請求の原因として次のように述べた。
(手形金請求)
一、被告は昭和三二年一二月七日左記約束手形三通(以下本件手形と略称する)をそれぞれ受取人白地の白地手形として振出し、訴外水野繁彦に交付した。
(1) 金額 二、一二三、〇〇〇円
満期 昭和三三年三月二〇日
支払地 山口市
支払場所 株式会社山口銀行山口支店
振出地 山口市
(2) 金額 一、九七六、〇〇〇円
満期、支払地、支払場所、振出地(1) に同じ
(3) 金額 一、〇〇〇、〇〇〇円
満期、支払地、支払場所、振出地は(1) に同じ
二、原告は同三三年一月一六日水野繁彦から本件手形三通を交付の方式により譲受けその所持人となつたので、訴外株式会社三和銀行に取立を依頼し、満期に支払場所において各手形を呈示したがいずれも支払を拒絶された。その際受取人欄に原告の氏名をそれぞれ補充した。
三、本件手形はいずれも山口市長長井秋穂が市長の権限にもとづき山口市を代表して振出したものである。
(1) 市は法人として地方自治法所定の事務を行うについて金銭取引をしなければならない以上金銭取引の手段である手形行為をなし得なければならないのは当然である。したがつて市が原因関係の如何を問わず抽象的に手形権利能力をもつていることは明らかである。
地方自治法第一三八条の二、第一四七条、第一四八条によれば、市長は普通地方公共団体の長として市を統轄代表し、市の事務を管理執行する職務権限を有し、同法第一四九条によれば、その担任事務の内容として、普通地方公共団体の経費をもつて支弁すべき事業を執行すること、財産及び営造物を管理すること、収入及び支出を命令し並びに会計を監督することが掲げられているから、右各規定の解釈上他人に金銭を支払いまたはその支払手段である小切手や手形を振出すことも当然市長の職務範囲に属する。市の条例で金銭の支払または手形小切手振出等の事務を収入役その他の補助機関に分掌させたとしてもそのことによつて市長の職務権限がその範囲でなくなるものではない。したがつて、市長は原因関係の如何に拘らず一般的に市を代表して手形行為をする権限を有する。そして、原因関係の有効無効は本件手形の効力に何ら影響を及ぼすものでないから、本件手形につき被告が支払義務を負うことは当然である。
(2) 本件手形の振出につき議会の議決その他被告の主張するような債務負担行為としての要件手続を経ているかどうかは知らない。
本件手形の振出は地方自治法第二三九条の二の債務負担行為にも、その一形式である同法第二二七条の一時借入金にも当らないから被告主張の債務負担行為としての要件や手続を経ることは必要でない。
なお、右各条に規定された債務負担行為をするための諸手続は、普通地方公共団体の内部的事務権限を定めたもので内部的拘束力を有するに過ぎず外部的に普通地方公共団体の能力やその代表者の代表権限を制限するものではない。たとい、それがこれらの能力や権限を制限する趣旨であるとしても善意の第三者には対抗できない。また、被告が内部規則により約束手形の振出を禁止したとしても外部的に本件手形の振出を無効たらしめるものでない。仮に本件手形振出の原因となつた行政事務が法令の定める要件や手続に違反し無効であるとしても、本件手形自体の効力には何ら影響を及ぼさないことは手形の無色的、中性的もしくは抽象的な性格上明らかである。それらの事由は人的抗弁の問題となるに過ぎない。
四、仮に何らかの理由により本件手形の振出が適法でないとしても、山口市長長井秋穂は同三三年一月一五日原告に対し、被告を代表して本件手形を被告の振出したものとして認める旨言明してその振出を追認したから、被告は右追認にもとづき本件手形金の支払義務がある。
五、仮に以上の主張がすべて理由がないとしても、本件手形の振出は山口市長長井秋穂の代表権限ゆ越行為であり、かつ同人は山口市長として法令所定の事務につき被告を代表統轄し現に被告の代表者として一般市政の管理執行の任に当つていたのであるから、原告が長井市長に本件手形行為をする権限があると信じたのは当然であり、かく信ずるについて正当の理由がある。故に被告は原告に対し表見代理の規定にもとづき本件手形金を支払う義務を免れない。
六、以上の理由により、被告は原告に対し、本件手形金合計五〇九九、〇〇〇円及びこれに対する満期の翌日である同三三年三月二一日から支払済に至るまで手形法所定年六分の割合による利息を支払う義務がある。
(損害賠償請求)
七、仮に本件手形にもとづく請求が理由ないとしても、被告は以下の理由により原告に対し損害賠償をする義務がある。すなわち、原告は訴外水野繁彦との取引により同訴外人振出の金額合計二三八〇、〇〇〇円、訴外両頭篤次振出の金額合計一七一九、〇〇〇円合計四〇九九、〇〇〇円の約束手形債権を有していたところ、後者の手形の満期日が近付いた同三三年一月一五日に右水野より本件手形三通(金額合計五〇九九、〇〇〇円)を譲渡するから引換に両頭振出の右手形を返還しかつ本件手形金額との差引剰余分をもつて水野振出の右手形の支払に充てその結果生ずる剰余金一〇〇〇、〇〇〇円を現金で貸与されたいとの申出があつた。原告は水野の申出により本件手形が真実被告振出のものかどうかを確めるため同日水野を同道して山口市に至り、山口市長長井秋穂に面会してその旨確めたところ同市長はこれを肯定した。ここに、原告は本件手形の記載や水野の言明、長井市長の手形確認等により本件手形は長井市長が正当な権限にもとづいて振出したものであると信じ、本件手形と引換に両頭振出の右手形及び現金一〇〇〇、〇〇〇円を水野に交付し、ために合計二七一九、〇〇〇円の損害を蒙つた。右損害は結局同市長が違法であることを知りながらことさらに、山口市長名義で本件手形を振出し、かつ原告に対し本件手形が有効に振出されたことを確認したため原告の誤信を惹起して生じたものである。そして、同市長のした本件手形の振出並びに確認行為は外形上同市長の職務執行行為と見られるから、右損害は同市長が職務を行うにつき原告に加えたものということができる。それ故、被告は民法第四四条にもとづき、原告のうけた前記損害二七一九、〇〇〇円及びこれに対する損害発生の翌日である同三三年一月一六日から支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を原告に支払う義務がある。
以上のとおり述べた。
被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁並びに抗弁として次のとおり述べた。
一、原告主張事実中原告主張の日に山口市長長井秋穂が被告を代表して本件手形三通を振出したこと及びその手形振出行為を追認したことは、いずれも否認する。原告が本件手形を入手した経過及びこれに伴い損害をうけるに至つた一連の経過竝びに損害をうけたことはすべて知らない。
二、仮に本件手形が山口市長長井秋穂によつて振出されたとしても次の理由により被告は支払義務を負わない。
(一) 普通地方公共団体の会計制度は関係法令を通じて現金支払が建前であつて約束手形による支払は認められていない。したがつて、自治庁の示している行政実例の見解と同様、被告の制定にかかる山口市財務規則においても、支払はすべて収入役の支払通知にもとづき市金庫の窓口現金支払を原則とし、遠隔地送金は郵便振替貯金及び送金為替によるものとし、約束手形振出の途は開かれていない。故に被告は一般的に約束手形振出の権利能力を有しない。
(二) 仮に被告が一般的に約束手形を振出す能力を有するとしても
(1) 被告がその機関により約束手形を振出す場合においても、それは債務支払のための履行行為として収入役の掌る会計事務に属し収入役の専権とするところであつて市長の権限に属しない。すなわち、地方自治法第一四七条第一四九条第一七〇条第一六九条等の諸規定を総合考察すると、同法は普通地方公共団体の会計事務につき事務処理の公正を確保しその財政的基礎の安全を保護するため、現代会計法の原則にしたがい、収入及び支出の命令機関と執行機関を分離し、命令機関に市長を、執行機関に収入役をあてたものと解することができる。したがつて、収入役は市長の補助機関として、その収支の命令権並びに一般及び会計事務上の監督権の支配に服するが市の収入及び支出その他の会計事務については専ら独立の執行権にもとづき市を代表して行うものである。地方自治法第一四七条は市長の地位に伴う代表権を一般的抽象的に定めたに過ぎず、市の収入及び支出その他の会計事務の執行については法律の規定をもつて具体的に市長の代表権を制限したものである。そして、本来手形は一定の金額の支払を目的とする証券であり一定の金額の支払のための手段であるから、本件約束手形の振出は前記地方自治法の規定にいわゆる支出に該当し、専ら収入役の職務権限に属することが明らかである。それ故、債務負担の原因行為について議会の議決その他の手続を要する場合であると否とに拘らず、長井市長がその名義で振出した約束手形について被告は何ら履行の責を負うものではない。
(2) たとい市長がその名義をもつて約束手形の振出をなすべきものであつても、次のような法令の定める手続を経ないでされた市長の手形行為は無効である。すなわち地方自治法第九六条第一項第八号は普通地方公共団体は歳入歳出予算をもつて定めるものを除く外あらたに義務を負担する場合は議会の議決を経なければならない旨を規定し、同法第二三九条の二は普通地方公共団体は法令または条例に準拠しかつ議会の議決を経た場合の外予算で定めるところによらなければ当該地方公共団体の債務の負担の原因となる契約の締結その他の行為をしてはならない旨規定し、これに応じて同法第二五〇条(起債)第二二七条(一時借入金)等の規定または地方公共団体の内規により債務負担行為の種類によりそれぞれ都道府県知事の許可もしくは議会の議決等の諸手続を経ることを要する旨具体的に定め、さらに、同法第二条第一四、第一五項によれば普通地方公共団体は法令に違反してその事務を処理してはならないとしそれに違反して行つた行為はこれを無効とする旨規定されている。右にいう債務負担の原因となる契約の締結その他の行為とは当該地方公共団体の財政的支出義務を内容とする一切の行為を指称するものであるから約束手形振出行為も当然そのなかに含まれる。そして、本件約束手形は山口市長長井秋穂が個人金策のためその資格を冒用して振出したものであつて、法令または条例に準拠しかつ市議会の議決を経たものでないことはもちろん予算に定められた支出について債務負担行為をするものでもないことは明白である。すなわち、長井市長は被告を代表して本件手形行為をする権限をもたないのであるから、本件手形振出行為は被告の行為としては全く違法にして無効の行為というほかない。かように、市長の代表権に対する制限は法令による原始的制限であるから右無効は善意の相手方を保護する特別規定のない限り何人に対しても対抗できるものである。それ故、被告は本件約束手形について支払義務を有しない。
三、前記のように、地方自治法は市長と収入役の権限の分掌を明確に区分しているから、市がその機関により約束手形を振出す場合においても、収入役がその資格においてなすべきである。したがつて、市の機構上市長が市を代表して約束手形を振出す権限は絶無である。仮にそうでなく市長がその資格においてなすべきものであるとしても、長井市長が本件手形行為をする権限を有しないことは法令上明白であるから、本件約束手形の振出行為が長井市長の権限ゆ越の代表行為であつても原告が同市長に代表権限ありと信ずるについて正当の理由があるとはいえない。故に、民法第一一〇条の規定により被告が責を負う余地は全くない。
また市長が市の事務と無関係に自己の用途に充てるためその資格を冒用してなした本件約束手形の振出は、外形上被告の職務執行行為に当らないことは明らかである。したがつて、原告がその主張のような損害を蒙つたとしても、被告は民法第四四条の規定により賠償責任を負う理由は少しもない。
以上のとおり述べた。
立証として、原告訴訟代理人は甲第一ないし第三号証の各一ないし四、第四号証ないし第八号証を提出し、証人藤永信義、同藤山幸男の各証言及び原告本人に対する尋問の結果を援用し、被告訴訟代理人は証人中田正作、同長井秋穂の各証言を援用し、甲第一ないし第三号証の各三、四、第五ないし第八号証の各成立を認め、甲第一ないし第三号証の各一及び第四号証の成立を否認し、甲第一ないし第三号証の各二の成立は不知と述べた。
理由
証人長井秋穂の証言及び原告本人に対する尋問の結果により真正に成立したと認められる甲第一ないし第三号証の各一と証人長井秋穂、同中田正作の証言及び原告本人尋問の結果を合せ考えると次の事実を認めることができる。本件約束手形は同三二年一二月初旬頃当時山口市長の職にあつた長井秋穂が、かねて個人名義の約束手形は市長名義の約束手形を副えて金員借入の斡旋方を依頼していた訴外水野繁彦の申出に応じ、さらに、市長の職務とは無関係に個人金融をうけるため、それぞれ、振出人欄に山口市役所宮野出張所備付にかかる山口市長の公印を押捺したうえ、他の基本的手形記載要件を白地とし、その補充を右水野に一任して交付し、同訴外人においてその頃受取人欄以外の空欄に原告主張のような記載(振出人欄に山口市長長井秋穂のゴム印押捺)をしてこれを補充した。収入役その他山口市の吏員は右手形の振出につき全然関与せずまたこれに関し市議会の議決を経たことはない。原告は水野繁彦とパルプ材買入契約を結びその手付金として自己振出の金額合計二三八〇、〇〇〇円の手形を差入れたが同人においてその履行を果さず、また同人より手形割引により両頭篤次振出金額合計一七一九、〇〇〇円の約束手形の譲渡をうけていたところ、同三三年一月一五日頃右水野より本件約束手形三通の譲渡と引換に、右両頭篤次振出手形を返還し、かつ前記手付として差入れた手形金額を差引して残額一〇〇〇、〇〇〇円を現金で出してほしいとの申出をうけた。原告は即日水野を同道して山口市に赴き市役所において、長井秋穂に面会して本件手形が山口市振出の手形であることを確めることができたので、翌日水野より受取人白地の本件約束手形三通を交付の方法により譲受けるとともに両頭振出手形と現金一〇〇〇、〇〇〇円を同人に交付した。以上のように認められ、これをくつがえすに足る証拠はない。したがつて、本件約束手形は長井市長が市長の職務とは無関係に全く自己個人の金融をうけるため市長名義で振出したものということができる。
被告は普通地方公共団体たる山口市は約束手形振出行為をする権利能力を有しない旨主張するので先ずこの点について考えてみる。地方自治法同法施行令地方財政法等のうち地方財政の会計制度に関する各規定を通観すると、地方公共団体の支払は後払確定払を原則とする現金支払を建前としていることがうかがわれる。山口市財務規則においても、同様市の支出は現金支払を原則とし、遠隔地の債権者に対する支払について郵便振替貯金または送金為替による送金支払を例外的に認めているに過ぎない。そして、これらの法令並びに規則には普通地方公共団体たる市の約束手形振出に関する規定を見出すことができないのでその手形行為を許さないもののようにも解せられるけれども、これらの諸規定は地方公共団体の財政の健全性を確保するため現金支払を原則としているにとどまり、如何なる場合にも手形の振出を禁ずる趣旨とも考えられないから、これらの規定により一般的に地方公共団体の手形権利能力を否定したものとは解せられない。地方公共団体も私法上の取引当事者として経済的活動をなし金銭取引をしなければならない以上、金銭取引の手段である手形行為をすることができるといわなければならない。それ故、地方公共団体たる被告が手形権利能力を有しないとの被告主張は理由がない。
次に、被告は市がその機関により約束手形を振出す場合には収入役が市を代表してなすべきものであり、市長は手形振出について代表権限を有しない旨主張する。なるほど地方自治法の規定(第一四九条第一七〇条等)によれば、普通地方公共団体の現金または物品の出納その他の会計事務は当該普通地方公共団体の収入役の専権に属し、普通地方公共団体の長は収入及び支出を命令し並びに会計を監督する権限を有するもこれらの出納事務を掌る権限を有しないことは明らかである。その趣旨は近代会計法の原則にしたがい収入及び支出の命令機関と執行機関を分離しその事務処理の公正を確保し普通地方公共団体の財政の安全を保護するため普通地方公共団体の現金等出納事務の権限をその長の権限の範囲から取除き収入役の権限としたものと解される。したがつて、右原則より考えれば金銭支払の一手段である約束手形の振出は当然収入役の職務権限に属し長はその権限を有しないとの被告主張は一応もつともなことである。しかしながら、地方自治法が収入役の職務権限として規定する現金または物品その他の出納事務とは現金または物品を現実に交付しまたは収納する事務(ただし金庫が設置されている場合は収入役の支払通知により金庫において現実に現金交付をする。)及びこれに付帯する事務(帳簿諸表を備え収支等を整理し報告する等の事務)を指すのであつて、その前提となる徴収令書、納額告知書、納付書等の発行事務、契約事務等はその地方公共団体の長の職務範囲に属するものであるから、現金支払の原因となる契約その他の債務負担行為はその長の権限に属するといわなければならない。そして、約束手形は一定の金額の支払を目的とする有価証券であつて金銭支払の手段としての機能をもつていることにかわりはないけれども、通常一定の金額を一定期間後に支払うことを約束する形式のものであり、小切手がまさに現金の代用物として支払の用具たることを本質としているのと多少経済的機能を異にしていることを否定できないから、約束手形の振出が収入役の有する現金出納の権限に当然に含まれるということはできない。山口市財務規則(第五章及び山口市建設工事標準請負契約約款参照)においても市の契約事務は市長の職務に属し契約書は市長が市を代表して調印することに定められている。また実際上も、普通地方公共団体が一時金等を借用する場合にはその団体の長名義の借用証書もしくはこれに代る約束手形を差入れ収入役において借入金を受領し或いは収入役名義の領収書と引換に金庫に現金払込がなされる例となつているものと推測される。したがつて、山口市が約束手形を振出す場合においても、手形の作成は市長が市を代表してする方式によるべきであるけれども、その手形を相手方に交付し流通におく際には現金支出の権限を有する収入役の手を経べきものとすることが正しい手続と考えられる。かような理由により、約束手形の振出は現金の出納そのものでなくその支出の原因となる債務負担行為にほかならないから、収入役がその資格において手形の振出をなすべきであるとの被告主張は失当である。
さらに、被告は市長が一般的に市を代表して約束手形を振出し得るとしても、山口市長長井秋穂は本件約束手形を振出す権限を有しない旨主張する。よつて先ず山口市長の代表権の範囲について考えてみる。普通地方公共団体の長の代表権は、民法上の公益法人の理事の代表権が原則として法人の事務全般に及ぶのと異り、法律上当該地方公共団体の事務全部に及ばない建前であることは地方自治法上明らかである。普通地方公共団体の長は当該地方公共団体を統轄しこれを代表するとの規定(地方自治法第一四七条)は長の地位に伴う職務権限を抽象的に定めたものに過ぎず、その長が具体的にどのような事項についてどのような範囲の権限を有するかは別に規定するところによつて定り、その長はその範囲内においてのみこれを代表する権限を有するものである。そして、普通地方公共団体は法令または条例に準拠しかつ議会の議決を経た場合のほか予算で定めるところによらなければ当該地方公共団体の債務負担の原因となる契約の締結その他の行為をしてはならないことは地方自治法第二三九条の二の規定するところである。右規定は地方財政の運営上明確な予算措置を講じないまま財政的負担を伴う契約締結等の行為が違法になされる事例が少くないことに鑑み、地方公共団体の予算の執行が法令及び予算の定めるところにより健全に運営されるよう特に設けられたのである。したがつて、ここに債務負担の原因となる契約の締結その他の行為とは当該地方公共団体の財政的支出義務の負担を伴う一切の行為を指すものと解すべきであるから、その振出により振出人が手形上の債務を負担する約束手形の振出行為は当然そのなかに含まれると見なければならない。もつとも、約束手形の振出は契約その他の実質関係を前提としてなされるのが通例であるから実質関係について右の制限にしたがうことは当然であり、実質関係について所定の手続を経たときはその履行々為である手形の振出について更に同様の手続を経る必要はないけれども、実質関係についてかような手続を経ていない場合はもちろん、実質関係を伴わない場合たとえば市の事務とは無関係に手形行為をするような場合にも法定の手続を経なければならないことは当然である。右規定に地方公共団体は上述のような行為をしてはならない旨規定されているのは、これらの行為が地方公共団体の行為としてなされるものであるためかかる表現が用いられたのであつて、実際には契約締結その他の行為をする権限を有する長やその指揮監督下にその衝に当る職員について規正した規定である。したがつて、普通地方公共団体の長が右規定に違反し所定の手続を経ないでした約束手形振出行為は、その事項について代表権限を欠く者のした違法な行為であるから、本人たる地方公共団体に対しては効力を生じないものといわなければならない。そして、本件約束手形は長井秋穂市長が個人金策の目的で市長の資格を冒用して市の事務とは無関係に振出したものであることは前に認定したとおりであるから、その振出行為は前記地方自治法の規定に違反し、したがつて、長井市長は市を代表してこれを振出す権限を有しないことは明らかである。かように、市長の市を代表する権限は法令の規定により原始的に制限されているのであつて、原告主張のように単に市の内部間においてのみ拘束力を有する内部的制限に過ぎないものでない。それ故、右制限に違反してなされた本件約束手形の振出は無権代理(代表)行為にほかならないから、右手形について長井秋穂個人が責を負うことは格別被告において支払義務を負うわけはない。よつて、被告に対しこれが手形金の支払を求める原告の第一の請求は理由がない。
原告はまた本件手形振出行為が無効であるとしても長井市長は同三三年一月一五日原告に対し本件振出行為を追認したから被告は手形金支払義務がある旨主張する。しかしながら、当時長井市長が被告を代表して本件手形行為をする権限を有しなかつたことは既に認定したとおりであるから、たとい同市長が原告主張のような追認の意思表示をしたとしても無権限者のした追認の意思表示により追認の効力を生ずるわけがない。故に、追認を理由とする手形金の請求が失当であることは明白である。
なお、原告は長井市長が本件手形行為をする権限を有しないとしても、原告は全市長がその権限を有するものと信じて本件手形を取得したものであつて、かく信ずるについて正当の理由があるから被告は手形金支払義務を免れない旨主張する。もともと長井秋穂は山口市長として一般的に被告を代表してすることのできる一定範囲の権限をもつているのであるから、本件手形振出行為は同市長がその有する権限を越えてした代表行為であることは明らかであり、また原告が長井市長に被告を代表して本件手形行為をする権限があると誤信したことは原告本人に対する尋問の結果によりこれを認めることができる。よつて原告が長井市長に代表権ありと信じたことについて正当の理由があるかどうかについて考えてみる、原告が水野繁彦より本件手形の譲渡をうけるに至つた経過は前に認定したとおりであつて、原告本人に対する尋問の結果によれば、右譲受の際原告は水野より本件手形は被告が公会堂建築のため水野の持山を買受けその代金の支払方法として水野に振出したものと聞いていたが、同三三年一月十五日山口市役所で長井市長に面会した際には同市長に対し本件手形が山口市の振出した手形であることを確めただけで、公会堂建築用材買入代金の支払として振出されたことその他手形振出の原因事実についてこれを確めることをせず、また右用材の買入もしくは本件手形の振出が市の予算にもとづくものかどうか或いはこれについて市議会の議決を経ているかどうかについて少しも確めていないこと、本件手形譲受前に長井市長に一度会つただけで収入役その他の山口市関係吏員はもちろん水野についても右のような事項の調査をした事実がないこと、原告としては山口市長長井秋穂が自ら本件手形を被告振出の手形に相違ない旨肯定したのでそのことによつて当然に同市長に本件手形振出の権限があると信ずるに至つたものであることを、それぞれ認めることができる。この点に関する原告の主張立証は要するに、市長は市の代表者として広く外部に対し行動しているのであるから市の行為については市長がすべて代表権をもつていると考えるのが通例であつて、市が約束手形を振出すことができるかどうか、それについて議会の議決を要するかどうかというようなことは法律にうとい一私人として理解困難なことであるから、市長が振出した手形にまちがいないことが確められた以上当然市長に手形振出の代表権限があると信ずることはまことにやむを得ないということにつきる。しかしながら、市長の代表権が一定の範囲に制限せられ市の事務全部に及ばないことは法令上明らかであり、特に現金支払を原則とする市が約束手形によりしかも受取人白地の手形により物品買入代金の支払をすることは稀有なことであるばかりでなく、そのような場合にも手形の授受は市を代表して現金または物品出納の権限を有する収入役の手を経ることが通常であるのに、収入役はもちろん原告主張の用材買入契約事務を担当する山口市吏員が本件手形の振出に関与したと見られるような外観は全然ないのであるから、原告が長井市長に代表権限ありと信ずることが客観的に見てもつともであるとはとてもいえない。かような場合、原告としては少くとも被告と訴外水野間の立木売買契約またはその代金支払のための約束手形の振出は市の予算にもとづいて行われるものか、或いはそれについて市議会の議決を経ているかどうかを、市長の言だけでなく、正規の書面により、若しくは収入役その他の関係市吏員について調査すべきである。若しそのような僅かの調査を遂げるときは本件手形が市の事業とは無関係に振出された疑いが少なくないことを容易に知ることができた筈である。にもかかわらず、原告は前に認定したように長井市長について本件手形が市長名義で同人により振出されたことを確認しただけで当然に同市長が正当な権限にもとづいて振出したものと信じたのであるから、この点の調査について原告に過失があることを否定できない。したがつて、このような事実関係のもとでは原告が長井市長に代表権限ありと信ずるについて正当の理由があると認めることはできない。その他原告主張の正当理由があることをうかがうことのできる特別な事情を認めるに足る証拠はないから、民法第一一〇条の規定を類推適用すべしとの原告の請求もまた理由がない。
原告はさらに、手形金請求が理由ないとしても長井市長のした本件手形振出並びに確認行為は外形上市長の職務執行行為に属するから被告は民法第四四条にもとづき原告が右行為によりうけた損害を賠償する義務がある旨主張するので判断する。本件手形は長井市長がその資格を冒用し市の事務とは無関係に振出したものであつて、振出について法令の定める何らの手続を経由せずしたかつて手形振出につき全く代表者権限を有しなかつたこと、及び原告が本件手形を訴外水野から譲受けるに至つたのは、同訴外人から本件手形は立木売却代金の支払として山口市より受領したものであると説明され、かつ原告の問合せに対し長井市長自ら市長として振出した手形であることを肯定したので当然同市長が被告を代表して正当の手続を経て振出したものと信じたことによるものであることは既に認定したとおりである。そして、長井市長は手形の確認に来た原告に対し本件手形が山口市振出の手形であることを抽象的に認めたにとどまり、それ以上ことさらに、本件手形が市の事業について正当の手続を経て振出されたものであることをうかがわせるような言動をしたことを認めるに足る証拠はないうえ、本件のような場合市長が手形振出の権限を有しないことは法令の規定上明白であるから、このような事実関係のもとにおいて、上述のような長井市長の本件手形振出並びに確認行為が客観的に山口市長としての職務行為に属することはもちろん職務行為に関連し外形上職務のの執行に密接な行為に属すると認めることもできない。けだし、民法第四四条により法人が理事者の不法行為により損害賠償の責任を負担するのは当該行為が理事者の権限の範囲内の行為であるか、少なくとも外形上権限内の行為であると認めるのが相当であると認められる場合に限られると解するのが相当である。そして、私法人に関する民法第四四条の規定が公法人である地方公共団体にも類推適用されるものであることはもちろんであるが、地方公共団体の長の職務範囲並びに権限は法令により一定の範囲に制限されているのであるから、その長の越権行為が外形上その職務行為と見られるかどうかを考えるについて、右の点に留意する必要がある。この点を拡張解釈し無制限な適用をするときは、権限の内部的制限の場合に関する民法第五四条や表見代理に関す同法第一一〇条の場合よりも却つて相手方の保護が厚くなるという不合理な結果を生ずる。これを相手方の側から見ても、長の越権行為が客観的に職務範囲に属すると認められるためには、取引の相手方の方で、長の行為が法令にもとづいて正規の手続でなされたと信ずるのがもつともであつて、法人の犠牲において相手方の信頼を保護することが一般取引上相当であると考えられるような一定の関係があることが必要である。したがつて、本件のように、市長が市の事業と全く無関係に市長名義を冒用して約束手形を振出しまたは振出の確認をしたものであるのに拘らず、原告が地方公共団体に関する法令の不知から市長が振出した手形であるかどうかについて確認したにとどまり、その手形が内部的に予算にもとづく支出行為としてなされたものか或いは市議会の議決を経て振出されたものかどうかの諸点について調査することなく単純に長井市長に代表権限があると信じて手形を取得したに過ぎない場合にまで、外形上市長の職務行為と認めて市に損害賠償の責任を負わしめることは相当でない。それ故、たとい原告が長井市長の行為により損害をうけたことがあるとしても、市長の職務を行うにつき加えた損害ということはできないから、民法第四四条にもとづく損害賠償の請求は、その余の争点について判断するまでもなく失当である。
以上の理由により、原告の請求はいずれも失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 黒川四海 五十部一夫 高橋正之)